ガラテヤ3章

3:1 ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか(誰が真理に従わせなくしたのですか)。

 十字架につけられたイエス・キリストを取り上げたのは、次の聖句を受けたものです。

ガラテヤ

2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

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 信者の正しい生き方は、私を愛しておられる神の御子を信じる信仰によるのです。律法の行いによるのではありません。

 十字架につけられた方が目の前にはっきりと示されたのであれば、その方の愛を深く知ったのです。その方の愛に応えて生きるのです。

3:2 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

3:3 あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

 そして、彼らに聞いておきたいと言い、御霊によって生きることが正しい生き方であることを明確にさせました。

 まず、御霊を受けたのは、信仰を持って聞いたからです。律法を行ったからではありません。この点に関しては、彼らがいわゆる救いの立場を持つに至ったことについて論じています。しかし、話は、更に続きます。

 彼らは、御霊によって始まったのです。彼らの信仰の歩みが始まったのです。その歩みにおいて義と認められることについて論じています。肉の行いによって義とされるのではないのです。御霊によるのです。

3:4 あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。

3:5 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。

 力ある業は、奇跡だけではありません。奇跡は、御霊による働きの一部です。また、すべての人がそのような賜物を受けているわけではありません。ここでは、義とされる実を結ぶことを指しています。また、キリストの姿に変えられることを指しています。これは、信者の歩みの中で経験することです。その方は、信仰を持って聞く者に対してその御力を現されます。律法を行うことでその御力を現されるわけではありません。信仰を持って聞いた時です。

3:6 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。

 アブラハムが義と認められたことは、ローマ書四章では、信仰による義についての例証として引用されています。しかし、ここでは、「神を信じた」というのは、信仰によって生きることであることがわかります。これは、次節の内容に整合しています。

 また、このことは、ヤコブ書の内容と対応します。

ヤコブ

2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。

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3:7 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。

 アブラハムの子と表現されている人は、アブラハムと同じ生き方をする信者のことです。それは、信仰によって生きる人々のことです。アブラハムは、信仰によって生きていたのです。このときも、神が示したことをそのまま受け入れ、それを信じて行動したのです。信仰による歩みの例証なのです。

3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

3:9 ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。

 聖書が記している「異邦人が、あなたによって祝福され。」という言葉は、「異邦人を信仰によって義と認めること」ですが、これは、「信仰によって生きる人々」のことで、単にいわゆる救いの立場を持つことだけではありません。信仰によって歩んでいる人のことです。

3:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。

3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。

3:12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。

 律法の行いによる人々については、祝福を受け継ぐことができません。彼らは、呪いのもとにあるからです。そのことが聖書を引用して証明されています。「律法の書に書いてあるすべてのことをを守り行わないものは、呪われる。」と記されているからです。

 そのことがさらに詳細に記されていて、義人は信仰によって生きると記されているように、義とされることは信仰によりますが、掟を行う人は、信仰によって生きていません。それは、律法の掟を行う人は、その掟によって生きると記されているように、信仰にはよらないのです。ですから、律法を行う人は、義とされないのです。

 これは、人が律法を行うことができないということを論じているのではありません。律法を行う人は、信仰によらないで生きているということを言っています。

3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。

3:14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

 キリストがしてくださったことは、律法の呪いから贖い出してくださることでした。そのためにキリストは、呪われた者となってくださいました。もはや律法を行わなくても、呪われることが無い者とされたのです。

 それは、「約束の御霊を受けるようになるため」ですが、これは、単に救いの立場を受けることではなく、律法の呪いから贖われ、約束の御霊によって歩む者とされていることを表しています。御霊を受けることは、律法の行いとの対比で記されていて、御霊を受けることはすなわち御霊によって生きることを表しています。

3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。

3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。

3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。

 御国の相続の約束に関して、それは、律法以前のアブラハムに対する約束の成就として与えられるのであり、キリストによって実現します。一旦結ばれた契約は、破棄されることがないのであるから、その後与えられた律法によってその約束が無効にされたり破棄されたりすることはないのです。律法は約束によるものではないので、約束による相続とは相容れないものですが、最初の約束が破棄されることはないのです。

 ここで、相続に関して記しているのは、相続は、単に救いの立場を持つことだけではなく、御心を行うことに対する報いを受けることを含むからです。ここで論じられていることは、信仰によって生きる者が義とされることですが、信仰の歩みによって義とされて報いを受けることであるからです。

 この相続の恵みは、神が約束によって備えておられるものですが、信仰によってその祝福を受け継ぐのです。恵みは、何もしないで自動的に与えられるのではなく、受け取るためにはいつでも信仰が必要です。

3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。

3:20 仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束をお与えになった神は唯一の方です。

「仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。」→「仲介者は、唯一ではありません。」原文の単語の構成は、前半と後半で同じです。主語は、「仲介者」と「神」です。前半は、否定の副詞が入るだけです。ですから、前半と後半は、唯一でないか唯一であるかという比較になっています。唯一無二のお方が与えたものとして、約束が揺るぐことがないことを示しています。二十節の日本語訳のような意味はありません。また、その訳文では、前後の関係を理解できません。

 律法の位置づけについて示しました。イエス様がおいでになられるまで、違反を示すために付け加えられたものです。

 律法の価値と約束の価値が比較されています。律法は御使いたちを通して、一人の仲介者の手によって与えられました。仲介者は、モーセですが、複数の御使いを通して与えられたことが示されています。そして、仲介者については、唯一でなく、約束を与えた方は、唯一であると示されています。

3:21 それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることができる律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。

3:22 しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

 律法が神の約束に反するのか問うています。反しないのです。律法が命を与えるものであったら、約束に反するのです。律法を行うことで義とされ、命を与えるという別の方法が示されることで、約束が否定されます。

 律法の目的は、別のところにあります。律法によってすべての人を罪の下に閉じ込めるためです。そして、約束がイエス・キリストによって信じる人に与えられるためです。

3:23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。

3:24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。

 信仰が現れる以前は、律法の下に監視されていました。すなわち、律法によって、罪を犯さないか監視され、判定を受けていました。人の判定ではなく、律法に照らして罪の責を常に負っていたのです。罪から開放されなかったのです。キリストによって罪から開放されることを学ぶためであったのです。そうでなければ、罪について知ることはできないし、肉の力によって神の御心に適うことを行うことができないことを学ぶことはできなかったのです。

3:25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

3:26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

 信仰によって約束が実現する時が来たので、もはや、罪を示すための律法の役割が終わったのです。

 信仰によって「神の子」なのです。神の子であることが示されているのは、二十九節の「相続人」と深い関係にあります。これは、単に救いの立場を持つことだけではありません。神の子として相続人であることを言っています。これは、信仰の歩みによって御国において報いを受けることを言っています。

3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

 キリストにつくバプテスマについて言及しているのは、信仰の歩みによって御国において報いを受けることに関して論じているからです。バプテスマを受けたことは、死んでよみがえったことを表しています。新しく生まれた者として御霊によって歩む者として生きているのです。そのような人は、キリストを着たのです。すなわち、その人の歩みは、キリストによるのであり、キリストが現されるのです。もはや自分はないのです。

3:28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

 律法によって歩むのでないのですから、ユダヤ人と異邦人の区別はありません。キリスト・イエスにあって一つです。

3:29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 キリスト・イエスに対する信仰によって、キリストのものなのです。それは、信仰の人アブラハムの子孫であり、約束の対象者であるということです。それで、約束による相続者であり、信仰によって生きることで、御国において報いを受けるのです。